哲学者図鑑
情・受・他・先
受け継ぐ語り部

自分の代では終わらない話をしている

紫式部の似顔絵

紫式部

生没年未詳・十世紀後半〜十一世紀前半(日本) / 隠しても、書いてはいた

「手紙には書き続けられないことを、善いことも悪いことも、世間のことも、身の上の嘆きであっても、残らず申し上げておきたいのです」

— 『紫式部日記』消息文の結び(渋谷栄一校訂本 第二部 第二章)

御文にえ書き続けはべらぬことを、良きも悪しきも、世にあること、身の上の憂へにても、残らず聞こえさせおかまほしうはべるぞかし

漢字の「一」という字さえ書き通さない、と日記に書いた人である。学をひけらかすと言いふらされてからは、屏風に書いてある字も読まない顔をして通した。隠しきったつもりの袖の下から、五十四帖が流れ出ている。
意匠:広げた袖で硯を覆い隠している。その袖の下から墨が一筋、机を伝って向こう側まで流れ落ちている

あなたへ

できるのに、できないふりをしていませんか。手を挙げれば面倒を引き受けることになる。詳しいと知られれば、次から全部こちらに回ってくる。目立った人が陰で何を言われるかも、見て知っている。だから知らない顔をしている。紫式部は、漢字の「一」という字さえ書き通さなかった人です。屏風に書いてある字も、読まないふりをして通しました。学のある女は栄えない、と世間が言うのを聞き、才があると言いふらされもしたからです。ただ、隠したのは腕前のほうだけでした。書くことは、やめていません。人に見せる顔と、書き続けるかどうかは、別々に決められる。彼女の日記は、そう読めます。

この人はこう考えた

紫式部の生没年は分かっていません。生まれは970年から978年のあいだ、没年は1014年から1031年のあいだで、諸説あります。父は藤原為時。漢学の人で、式部大丞をつとめ、のちに越前守になりました。幼いころ、兄弟の惟規が漢籍を読むのを横で聞いていて先に覚えてしまい、父は「男の子として持てなかったのが不運だった」といつも嘆いていたと、本人が日記に書いています。998年ごろ藤原宣孝と結婚し、翌年に娘の賢子を生み、1001年に夫と死別しました。1006年前後から、一条天皇の中宮彰子に仕えます。才のある女への目は、厳しいものでした。家の侍女たちからは「御前はこうだから幸いが薄いのです。どうして女が漢籍を読むのか」と陰口を言われています。「男でさえ学をひけらかす人は栄えない」という世間の言葉を聞いてからは、一という字さえ書き通さないようにした、と日記にあります。宮仕えのあとには、一条天皇が『源氏物語』を聞いて「この人は日本紀を読んでいるに違いない」と言った言葉を、左衛門の内侍が「たいそう学をひけらかす」と言いふらし、「日本紀の御局」とあだ名されました。それからは屏風の字も読まない顔をして通します。その一方で彼女は、人のいない合間を選んで、彰子に『文集』の「楽府」二巻をひそかに教えていました。『源氏物語』五十四帖がいつ書かれたのかは、はっきりしていません。

こういうときは、この言葉

公式の記録に、自分のしたことが一行も残らないと思うとき

「神代からこの世にあることを、書き記してきたものらしい。『日本紀』などは、ほんの片側にすぎない。物語のほうにこそ、筋道の通った細かいことは書いてあるのだろう」

神代より世にあることを、記しおきけるななり。『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ

— 『源氏物語』蛍巻(光源氏の物語論)

作中で光源氏に言わせた台詞である。先に物語をけなしておいて、笑いながら言い直した軽い調子の一言でもある。ただし向きに注意したい。正史を持ち上げて物語を弁護したのではなく、正史のほうが片側だ、と順番を引っくり返している。

まだ直している途中のものを、人に見られてしまったとき

「まずまずに書き直しておいた本はみな手もとからなくしてしまっていて、(手直し前のものが出回り)気がかりな評判を取ったことでしょう」

よろしう書きかへたりしはみなひき失ひて、心もとなき名をぞとりはべりけむかし

— 『紫式部日記』寛弘五年(1008年)冬 御冊子作りの段

局に隠しておいた物語の本を、中宮の御前に出ているあいだに持ち出され、清書前のものが人手に渡った話である。持ち出したのは最高敬語で書かれた人物で、道長と見るのが通説。直し終わらないうちに人の目に触れてしまうことを、この人も経験している。

できると思われたくなくて、できることを隠してしまうとき

「一という字さえ書き通すことはしません。ひどく不調法で、あきれるほどです」

一といふ文字をだに書きわたしはべらず、いとてづつに、あさましくはべり

— 『紫式部日記』消息文 日本紀の御局の段(渋谷栄一校訂本 第二部 第二章)

無学を装っている自分の外見を、てづつ(不調法だ)、あさまし(あきれる)と言っている。同じ段で、中宮へ漢籍の「楽府」をひそかに教えていたことも書いた。それを道長と天皇は知っていた、とも。隠すことと、やめることを混ぜていない。

先のことを考えると心細くて、何も手につかないとき

「この先どうなるのかとばかり思って、心細さの持って行き場もないなかで、それでも他愛のない物語にかこつけて、話の合う人とはしみじみと手紙をやりとりしていた」

いかにやいかにとばかり、行く末の心細さはやる方なきものから、はかなき物語などにつけて、うち語らふ人、同じ心なるは、あはれに書き交はし

— 『紫式部日記』寛弘五年(1008年)冬 里下がりしての述懐の段

出仕する前、夫を亡くしたあとの年月を振り返った段。心細いまま、物語を口実にして話の合う人とつながっていた。ただしこの直後、同じ物語を手に取っても昔のようには感じられず、疎遠になる人も多かった、と続く。慰めがいつまでも効くわけではないことまで、この人は書いている。

見聞きしたことを、胸にしまっておけなくなったとき

「(物語というものは)誰それの身の上として、ありのままを言い立てるのではない。善いことも悪いことも、この世を過ぎてゆく人のありさまの、見ても見飽きず、聞いても収まりきらないところ、それを後の世にも言い伝えさせたい——その節々を、心にしまっておけなくなって、言い残しはじめたものなのだ」

その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、善きも悪しきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠めがたくて、言ひおき始めたるなり

— 『源氏物語』蛍巻(光源氏の物語論)

作中で光源氏に言わせた台詞で、紫式部が地の文で書いたものではない。作者の物語観を光源氏に託したと読むのが、本居宣長『紫文要領』以来の通説。ただし玉鬘を口説く流れの中の台詞で、直後に「私のような実直な愚か者の物語はあるか」と冗談めかして続くため、照れ隠しや皮肉を読む見方もある。

入口になる本

入口
紫式部ひとり語り
山本淳子(角川ソフィア文庫、2020年2月、318ページ)
紫式部は資料の少ない人です。生没年すら分かっていません。この本は平安文学の研究者が、残っている史料と日記と和歌をもとに、紫式部本人の一人称で生涯を語り直したものです。名前も生年も分からない人の人生が、どこまでは分かっていて、どこからが空白なのかが、読みながら見えてきます。
まず読むなら第二章「矜持」から。兄弟の横で漢籍を覚えてしまい、父に嘆かれた話がここにあります。このページの格言3の背景です
読み終えると「源氏物語を書いた人」という一行が、彼女の人生の何を落としているのかが分かる
向かないのは一次資料そのものを読みたい人。地の文は研究者による再構成であって、紫式部が書いた文ではありません
本命
紫式部日記 現代語訳付き
紫式部/山本淳子 訳注(角川学芸出版、2010年8月、399ページ)
このページの引用と格言のうち四つは、この日記の中にあります。原文と現代語訳と注が同じ一冊に入っていて、後半の消息文と呼ばれる部分は、同僚の人物評と、自分の心のありようの点検が続きます。千年前の職場で、誰にも言えないことを書き付けた文章として読めます。
まず読むなら後半の消息文から。ここだけ文体が手紙になり、宮中行事の記録から一転して本音が出ます
読み終えると才能を隠すという判断が、弱さではなく計算としてもありうることが分かる
向かないのは平安宮廷の年中行事に関心がない人。前半はほぼ出産と祝宴の記録で、人名と官職が延々と続きます。心のうちを書いた部分は、399ページの一部です
本命
源氏物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典
紫式部/角川書店 編(角川書店、2001年11月、504ページ)
五十四帖の全文ではなく、各帖から重要な場面を抜き出して、原文と現代語訳と寸評を並べた一冊です。全訳は長く、途中で止まる人も少なくありません。この本は五十四帖の通し方を先に渡してくれるので、どの帖から全訳に入るかを決めるための地図として使えます。
まず読むなら目次から。気になる帖名のところだけ拾い読みして構いません。通読を前提にした作りではありません
読み終えると五十四帖が全体としてどこへ向かっていく話なのかが、順番で分かる
向かないのはこのページで引いた蛍巻の物語論を読みたい人。各帖からの抜粋であり、どの場面を採るかは編者が選んでいるので、収録されているとは限りません
12の質問に答えると いまのあなたに近い哲学者がわかります 無料・登録不要・名前も連絡先も聞きません

ほかの哲学者

エピクテトス
自分の領域だけを守れ
老子
力まず、水のように
ハンナ・アーレント
立ち止まって、問え
ジャン=ジャック・ルソー
比べる心が、鎖になる
フランツ・カフカ
凍った海を砕く斧を
ヘルマン・ヘッセ
卵を破らねば、生まれない